名古屋の家の裏壁にみんなで描いた絵
(本号表紙参照)と同じように並んでみました。
尚文80歳の誕生日会のときの家族写真
2019年6月21日
私の履歴書
私は1939年6月21日生まれですから、今年で満80歳になります。私への恩恵の大きさを感じるために、過去を振り返ってみます時、その大きさに驚くばかりです。
私は木村栄一郎(=3代目弥作)+礼(礼子)の二男として生まれましたが。長男がすこぶる元気で、後に妹(ただ一人の娘)と弟(3男=末っ子)が生まれたため、全く自由に生きることが出来ました。また生家に小金があったために、大学受験の際も、浜松での下宿生活も、2回のドイツへの留学も許されました。
また結婚に際しても全くの無干渉でした。結婚式をドイツであげたのですが、この時も好景気が幸いしました。3回目に渡独し、新婚旅行と仕事を兼ねてでドイツからアムステルダムへ行く飛行機の中でドル・ショックのために日本の株価が2/3ほどになったという記事を見て、大変なことになったと感じました。それ以後機械工具の輸出をあきらめ、輸入に専念しています。
向陽高校を卒業して、浜松市にある静岡大学工学部に入学しました。当時の1期校は名古屋大学の工学部、2期校は名古屋工業大学というのが通常のパタ-ンでしたが、多分下宿しても良いだけの資産がある家の二男であるという理由で、当時の担任の石原庸吉先生が静大工学部を勧めてくれたのでした。その時宿屋で一緒になった受験生たちから、この学校には統計学の好きな先生がいるから、数学の試験には統計学の出る可能性が高い、と言う事をききましたので、一夜漬で統計の勉強をしましたら、本当に統計の問題がでて、そのせいかどうか分りませんが現役で合格してしまいました。向陽高校ではほぼ30番前後でしたが、名大工学部は向陽高校から毎年30人ぐらいが入学しましたから、30番目というのは、運が良ければ合格するであろうというギリギリの所でした。
なお医学部はとても無理でしたが、他の学部、例えば同級の益川敏英君のように、理学部でしたら受かっていたかもしれません。何れにせよ、静岡大学工学部に入学したことが人生の大きな岐路になります。なぜならそこで「無教会キリスト教」を知ることになったからです。
大学では以前からあこがれていたチャンバラゴッコの続きで剣道部に入りました。多分目が悪く(近眼で)、運動神経もすごく悪く、球技が不得意であったせいかもしれません。当時の剣道部の顧問であった平沢弥一郎先生が主催されていた聖書研究会に入れていただきました。1959.01.18の事だったと思います。
その原因は当時の部長であった4年生の先輩の新免正美さん影響に負うところが非常に大きいと言えます。剣道部の部長はその次に1年先輩の長谷川さんになり、その次は1浪して入学した渥美さんになりました。その後は同年輩の森田さんでした。渥美さんの時代に、私はマネジャ-になり、会計係を担いました。私は3年生になっていましたが、剣道の段がありませんでしたが、実力は1.5段ほどでした。昇段試験は日曜日にしかなく、日曜日には聖書研究会に参加していましたから、私は段がありませんでしたが、皆がそれを認めてくれたからだと思っています。
4年生になってから、1年先輩の田島正春さんの後をついで聖書研究会では前講を務めるようになりました。その際にできるだけ新しいことを話そうと努めましたから、前講は私にとっても良い勉強になりました。あまり聖書の勉強が面白いので、もっと専門的に聖書の勉強をしたいと思い、そのためにはギリシャ語とヘブライ語の勉強をしようと思い立ちました。そこで語学の勉強のためにドイツ留学を思いつきました。そのためにドイツ語の勉強が必要ですから、津島市のドイツから来た宣教師のもとでドイツ語の勉強を始めました。
当時は外貨の制限があり、将来大学の先生に成れる可能性がある優秀な人材しか留学できませんでしたが、何とかそこに私費留学生として潜り込むことが出来ました。しかし私費留学生には厳しい制限があり、私は大学受験以上に勉強した記憶がります。しかしその厳しい制限は日本国が豊かになると同時に無くなり、婚約のために2回目の留学時に無くなりました。当時はシベリヤ経由が最低金額の道でしたから、2回ともシベリヤ経由で渡独しました、2回目の留学では目的を持たない留学生が増えたと思いました。また1回目の留学時には私以外には博士号取得を目指す奨学金付きの優秀な人材ばかりでした。
私はもともと記憶力が悪く、ドイツ語にてギリシャ語とヘブライ語を勉強するためのタレントが無いことに気付きましたので、どうしようかと思い悩んでいたころに、ドイツ人の少女と知り合いになりました。彼女はラテン語とギリシャ語は高校生までにマスタ-し、大学ではヘブライ語を勉強している同級生でした。彼女と
当時は外貨の制限があり、将来大学の先生に成れる可能性がある優秀な人材しか留学できませんでしたが、何とかそこに私費留学生として潜り込むことが出来ました。しかし私費留学生には厳しい制限があり、私は大学受験以上に勉強した記憶がります。しかしその厳しい制限は日本国が豊かになると同時に無くなり、婚約のために2回目の留学時に無くなりました。当時はシベリヤ経由が最低金額の道でしたから、2回ともシベリヤ経由で渡独しました、2回目の留学では目的を持たない留学生が増えたと思いました。
二男は気ままですが、要するに補欠であり。必要な時が来れば、その任務に就かなければなりません。わたしの場合は「養子」でした。父親の姉には一人息子がいましたが、第2次世界大戦で戦死し、弟には子供がいませんでしたから、私はそのどちらかに行くべき運命でしたが、だれもイニシアティブを取らず、当時の木村弥作商店内でも貿易の仕事が重要になり、ズルズルと生きているうちに、皆が年を取り、チャンスが無くなりました。これは私にとって非常に幸いな事でした。こののち長男に子供ができず、㈱ヤサク(木村弥作商店から改名)の行く末は、二男である私か、三男である弟の出番になりますことも幸いだったと思います。しかし私たちの間では、私は弟に弥作商店の次期社長になるように話をしていましたから、私には何ら問題がありませんが、他人はそうとは思っていなかったようです。
その後、長男がやり過ぎてヤサクは倒産してしまいました。1998.08.10の事でした。負債総額は約60億円だったと思います。新聞やTVにも出たそうですが、私は直接見聞きしたことはありません。倒産の直前(1998.06.30)に私は退職したからです。勿論退職金は0です。この際の妻の決断力の良さにいまだに感謝しています。私はもっと以前に退職したかったのですが、担保を提供していたおばさま(父の姉)の生存中はそれが許されませんでした。
なおヤサク倒産時に、私は貿易部門を統括していましたが、主な部門であった、スイスのCAD/CAMは松浦機械様が専門社員と共に引き受けて下さいましたので、安心して自分の道を歩むことが出来ました。色々ありましたが、ヤサクの上田邦男専務の援助もあり、貿易部門の仕入れ先への負債は0でした。また新会社設立時には、ウツノモ-ルド様、木村精機様、松岡特殊鋼様に特別な配慮をして頂きました。これも大きな恩恵と言えると思います。
私たちには2人の子供がいますが、2人とも結婚し、それぞれ2人の孫がおり、東京の上智大学(長男)とベルリンのフンボルト大学(長女)の教授になっており、将来も経済的に困ることが無いと思っております。妻と2人でためた貯金も自由に使うことが出来ますという大きな恩恵のうちにいます。主の祈りの中の「日々の糧を与えたまえ」の糧とはすなわちお金のことと理解しております。
ヤサク倒産前の6月に私たちの家族は「れテ-ロイ」という家族雑誌を始めました。この雑誌は現在も続いております。また独立してお金が溜まったので、キリスト教男子学生寮「言学寮」を建てることにしました。丁度近くに土地が売りに出されており、そこに建てました。その後FETTE Japan GmbH を元言学寮生に譲り、現在に至っています。
(2019年6月21日)
静岡大学工学部
ドイツ旅行
聖書研究会、静岡大学、浜松
(ドイツ)Forchheim の市役所で結婚式
私たちの家族
園子ドーロテアと護郎クリストフ
出張
Nürnberg で義父と会った
繁栄している会社
聖書の研究会
無教会集会
編集室、『Leteroj Nr.1』
自分の会社を立ち上げる
すべては恵みである
世を愛された。
イエスを信じる者が一人も滅びないで
永遠の命を得るためである (ヨハネによる福音書3:16)
私、木村尚文は(84)
2023年12月12日に
天の私たちの故郷に呼ばれました。
私に大きな影響を与えた聖書の言葉は、聖書の最初の言葉、創世記1:1です。
初めに、神は天地を創造された。
בְרֵאשִׁ֖ית בָּרָ֣א אֱלֹהִ֑ים אֵ֥ת הַשָּׁמַ֖יִם וְאֵ֥ת הָאָֽרֶץ׃
ha-erez we-eth ha-schamajim eth elohim bara be-reschit
(ヘブライ語を右からひだりへ読む)
この言葉については、私たち(KTI出版社)の本「Pfeil-Worte 矢言葉 Arrow Words」 の中の「創世記」(p.18)
という記事を読んでください。
妻とドイツの大学で(Friedrich-Alexander-Universität Erlangen Nürnberg)出会い、1971年に結婚しました。
私たちは二人の子供に恵まれて、護郎クリストフ(息子)は恵(妻)と二人の子ども、希蒔郎・凪と共に
東京で、園子ド-ロテア(娘)は ト-マス(夫)と二人の子ども、カタリーナ陽子 ・愛火ドーロテアと共に
ドイツに住んで います。
私は木村家の会社 YASAKU、そして1998年から自分の会社 KTI でドイツの会社FETTEの総代理人でしたが、
2009年に学生寮「言学寮」を建て、2019年にKTI出版社を始めました。
私たちの本は言学寮生と内村鑑三の後継者の努力で作られました。
40年前に私と妻はドイツの手人形 Kersa-Hand-Puppen、日本に輸入しようと思いましたが、その紹介のために、
この人形を使ってグリム兄弟の「赤ずきんちゃん」という童話を語りました。
全て神の恵みによるものです。
KTI 出版社の本で心からの別れの言葉をお送りいたします。
では、また会う日まで。
神の愛
聖霊の交わりが
あなたがた一同と共にあるように (コリント人への手紙 二 13:13)
木村尚文