2025年3月23日、私は名古屋で開催された内村記念日に講演を行う機会を得ました。

内村について話した前に(内村鑑三)、自己紹介を求められました。



1第一の導き。私は尋ねられた。

 

「神学を勉強したくないですか」

今から、私は3つの村についてお話しします。私は、村に関係するものに特別な愛情を持っています。それは、教会村、木村、内村です。

   私は難民の子ですが、両親は私にそのことを決して話しませんでした。私の両親は、第二次世界大戦後、自分の故郷から逃れなければなりませんでした。私の母はポーランドのシレジアの出身で、父はグダンスクDanzigの出身です。私は、高校を卒業するまで村に住んでいました。その村は、山に囲まれ、たらいWanneの中にあるウァンバッハと呼ばれていますが、... バッハは音楽家のバッハとは関係がありません。バッハ(ドイツ語=Bachとは、 村を通って流れる川のことです。J.S.バッハは、後になって私の人生に現れました。

 ヴァンバッハの入り口には、遠くからでも 目立つ白い教会があります。


私は幼い頃から教会の子でした。教会があるところは私の故郷であり、心の故郷でもあります。ちょっと説明したいと思います。

 小学校での最初の読本の中には、教会と日曜日の礼拝を呼びかける鐘の絵がありました。それはとても印象的でしたから、 時々、日曜日の朝8時に鐘が鳴っても、両親がまだ寝ようとしていた時、私は ―家の鍵を持っていなかったので― トイレの窓から飛び降りて、 一人で教会に行きました。  

 

 


  9歳のとき、私は祖母の誕生日に、私が持っていた最も大切なものを贈りました。何でしょうか。大好きなヴァンバッハ教会の絵を描いたものです。祖母が亡くなった後、私はその絵を相続しました。大事な遺産物で、今でも持っています。

  14歳の時、この教会で堅信を受けました。つまり、赤ちゃんの時に洗礼を受けて、 両親と同じように、福音ルーテル教会のメンバーになったのですから、14歳のとき、自分が教会に属したいことを確信します。その前に、課外授業、いわゆる堅信授業に参加しなければなりません。

  当時の牧師さんは村で人気がありませんでしたが、私は彼が好きでした。私は彼を通して、2つの重要なものを得ました。1つは絵とその説明、 2つ目は聖書の言葉です。

上に曲がった線を描いてみてください。これは牧師が私たちのために黒板に描いたものです。それは絵です。この上に曲がった線を鏡像的に描くと、魚のように見えるようになったでしょう

この魚のシンボルがどこから来たことを、 科学的に説明したものではありませんでしたが、私にとって、それはイエスが誰かということの明快な説明でした。覚えやすいのです。私は学校でギリシャ語を学び始めたところでしたからです。


              Fisch heißt auf Griechisch                     魚はギリシ語で

              ΙΧΘΥΣ (= I CH TH Y S)

            Iesous   Christos   Theou     Hyios   Soter

                Jesus     Christus    Gottes   Sohn     Erlöser

                  イエス   キリスと    神の   神の(息)  救い主

私たちの車にこのような魚の絵を貼りました。それは、私たちを危害から守ってくれる魔法のしるしであるわけではありませんが、それはキリスト者としての証しです。名古屋で2回も見ました。

  私のおじさんは、堅信式の時に私に向けて こう言いました。「あなたの友だちは皆、陽気な顔をしていたが、あなただけはとても真剣な顔をしていました」。まあ、友達は特別に美味しい昼ご飯とケーキ、または、プレゼントのことを考えていたのでしょう。私は今から、ヴァンバッハの村の教会だけでなく、主なる神の教会に属するということを深く考えていました。

  そしてその日は、初めて教会の聖餐式に参加することができました。重大な時です。聖餐式の前には数分間、静かな時間、自分の考えと心を習ったばかりの神の戒めと比べ、間違った道を引き返す重大な時間があります。それから、イエスの最後の晩餐の言葉が、 私たち堅信を受ける子たちに向けて直接に宣べ伝えられます。私にとっては、まるでイエス自身が私に話しかけているかのようでした。

 

 

 

 

 

「取って食べなさい。これは、あなたのために与えられるわたしの体です。わたしを記念してこれを行いなさい。

  同じように、「これを取って飲みなさい。この杯は、罪の赦しを得るためにあなたのために流される、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを記念してこれを行いなさい。」


内村は、聖餐式の力と、それに参加することの感謝と喜びを知っていました。これについては、後半でまたちょっとお話しします。

私にとって、教会の祝日、特にクリスマスとイースターが一年のハイライトでした。特にクリスマスキャロルは、クリスマスのメッセージを歌ったもので、「世は滅びたのですが、キリストがお生まれになりました。だから、喜びなさい」などです。私は、クリスマスを家や教会と違う形で祝うことができることは、決して考えられなかったのです。私は今でも、ヴァンバッハ教会と教会での礼拝が大好きです

では、根っからの教会の人である私が、どうやって無教会を生きる内村に関心を持つようになった認立ったでしょうか。この道は、職業の選択から始まりました。


ルターにとって、仕事(Beruf)は天職(Berufung)であり、すなわち、神からそれぞれの仕事に呼ばれたということです。ですから、牛飼いは神のために働くことで、王様と同じ尊厳を持っています。そうすれば、感謝と喜びを持って仕事をすることができます。私はどのような職業を選択すべきでしょうか?高校生の時、 高校を卒業する前に、私の堅信の聖句が私の職業選択を助けてくれました(コリント第一 6:20)。

 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、神からいただいた体で、神の栄光を現しなさい。」In your body and in your spirit“英語の『The New King James Version新欽定訳聖書』に書かれています。ギリシャ語のテキストとルターの訳には in your spirit“と書いていないのですが、コンテキストから分かります。私の堅信の聖句には、„in eurem Leib und eurem Geist„in your body and your spirit“)神の栄光を現しなさい”と書いてあります。

  この言葉は、学校での私の好きな科目と一致していました。だから私は、スポーツとドイツ語、ドイツ文学の教師になりたいと思っていました。そして、小さい時から目に問題を抱えていたから、いつか目が見えなくなることを心配し、目の不自由な子供たちの先生になるつもりでした。学校の卒業新聞に、クラスメイトが別の職業を提案しました:Papst 法王」。

 

  

私たちはバイエルン州に住んでいましたが、父はヘッセン州のフランクフルトのヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学を私に勧めてくれました。ここではスポーツや文学だけでなく、教育学も、その他の分野も勉強することができますから。 

 

フランクフルト大学は、1968年の学生運動の中心地の1 つでした。大規模な学生集会やデモが開催されました。しかし、ほとんどの学生は、それが何のことかよく知らなかったと思います。若者たちは元気いっぱいで、流行っている運動に参加したり、 同じスローガンを叫んだり、何かの理想を語るリーダーに従ったりします。今、パレスチナのためにイスラエルに対して学生たちの抗議のデモは同じです。2023年の調査によると、ドイツの18歳から2 9歳の若者の40%が、ナチ時代に600万人以上のユダヤ人が殺害されたことを知らないということです。しかし、彼らはイスラエルに反対するデモに参加しています。私の友達はデモに参加したが、しかし警察の放水でびしょ濡れになったから、もう一度も参加しなかった。私も大きなMeetingに出席した。その時、「制度に下から上まで上がる」というスローガンを聞きました。すなわち、トップの地位を目指すということです。それから、メディアや政治的な決定を通じてシステムを変えることができるという考えです。

 


当時、ルターの国では、未来は神無しで計画されました。しかし、神の所が空っぽになると、他の何かがその代わりに入ってきます。その結果は、今日の西側諸国ではっきりと目に見えています。パリオリンピックの開会式を思い出してみましょう。私にとって、オリンピックは素晴らしいスポーツイベントでした。しかし実際には、ギリシャの最高神ゼウスのための異教の祭りです。パリでの開会式は、それを思い出させるものでした。

 

今日、ヨーロッパとアメリカにおける内村の課題は100年前と異なっていますが、とても重要です。後半でもっと詳しく説明します。

 


私のフランクフルト時代には、大学の一部の入り口は閉鎖されていましたが、幸いに哲学部の新約聖書のセミナーに参加することができました。神学を勉強したかったわけではなく、―その考えはまったくありませんでした― 興味があっただけです。

 そして、プレゼンテーションのテーマが与えられ、私の番になりました。このような、学生のプレゼンテーションは面白くないでしょう。他の生徒たちは退屈しているような感じでした。しかし、突然すべての目が私に集まりました。私は何と言ったでしょうか? 何もない。言葉も、何かの音さえも、私の口から出てこなかったのです。声が出なくなってしまいました。そんなことがあります。セミナールームは、すっかり静まり返っていました。ついに、ハンス・ヴェルナー・バルチュ教授はこう言いました。「授業が終わったら、私のところに来てください」。私は小さくなって、授業の後に先生のところに行きました。原稿を彼に渡し、少なくとも私が準備したことを見せたかったのです。教授は私の原稿に少し目を通し、それから私に返しました。それで終わりだと私は思っていました。

  しかし、彼は『私に家にから来てください。」と言いました。私はそうしました。声が戻ってきたが、会話の中でバルチュ教授は私に尋ねました。「どこから来たの?」 ‐『ニュルンベルグの近くから。」 ‐「神学を勉強したくないでしょうか。」

 

 

 

Friedrich Alexander Uni Erlangen-Nürnberg の神学部の Gerhard Friedrich 教授に推薦状を出します」。私の答えは?部屋に飛んでいき、両親に「進路変更する」という手紙を書きました。

  これで「教会村」のことは終わりです。次は「木-村」の話になり、第2の導きがテーマになります。

 

 




1第二の導き。私は尋ねられた。

 

「一緒にいきましょうか。」

私は夏学期から神学の勉強を始めました。まず。聖書の言葉の言語である「ヘブライ語(旧約聖書)とギリシャ語(新約聖書)、そしてラテン語も学ばなければなりません。

          ειρηνη

 

ヘブライ語/Hebräisch    ギリシャ語/Griechisch

 

 

 

 

 

pax           平和      Friede

 

ラテン語/Lateinisch Japanisch     ドイツ語

 


私は文系の高校に通い、ギリシャ語とラテン語の大学入試資格試験を受けて高校を卒業しました。だから、ヘブライ語から始めることができました。この夏学期のコースの学生は、わずか7人でした。その中には一人の日本人!

私の夢は、いつか日本に行くことでした。私たちは、学校で日本の歴史や文化について何も習いませんでしたが、富士山の写真をどこかで見たことがあり、水墨画や生け花にも感心しましたが、何よりも着物が好きでした。ヨーロッパ人には、このような色や模様を想像することはできません。このようなものを美しいと感じる人々は、とても特別で、とても魅力的です。そして、日本人がお互いにお辞儀をするのも気に入りました。内村のいわゆる不敬事件のことを読んだ時、お辞儀が問題をおこすこともあると驚きました。にとって、日本に行くことは、現代の学生が月に行くことを夢見るのと同じぐらいのものでした。

 

しかし、1964年に東京オリンピックが行われました。日本とオリンピックは、当時の私にとって最高の夢でした。

  そして、ドイツの政府は、スポーツと文化の代表になるドイツの若者を選びました。地元の新聞に面白い記事が載っていました。その見出しは、「ヴァンバッハの子は東京に行きたい」。しかし、この子はベルリンまでしか行けなかったのです。決勝戦で夢の旅は私にとって終わりました。私はこの結果のメッセージを破り、次の機会を待ってみようと思っていました。

  それで今、ヘブライ語のクラスに日本人の学生が座っていました。彼が私の国に来られるなら、私もいつか彼の国に行くことができるかもしれない。もちろん、その時に少し手伝ってくれる友達がいたら便利です。彼が私に興味を持った理由も、同じぐらい利己的なものでした。

 当時、私には人生にかかわる問題が2つありました。内村がこの問題を解決しました。第一の問題は、勉強の内容に関するものでした。最初の学期はヘブライ語を学ぶだけだったので、講義とセミナーにも参加する時間がありました。私は神学、つまり神の言葉を学びたかったので、旧約聖書のプロセミナーに参加しました。しかし、私たちは聖書の中の神の言葉を研究しているのではなく、何人かの教授の本を研究していることに、まもなく気がつきました。 

 私が最初に読むことになった本は、旧約聖書のそれぞれの本に関する科学的事実を教えてくれました。今でも私は、大学時代に使った堅信にいただいた聖書を読んでいます。それは当時の文字やメモでいっぱいです。私は、これらの科学的事実をそのまま受け入れました。しかし、2番目の科学的な本は、最初の科学的な本と矛盾していました。そして時が経つとともに、国や大学や時代によって教えられた理論は異なっており、すなわち私たちは科学的事実を学んだのではなく、時代の意見を学び、Theo-logieの言葉ではなくProfessor-logie、教授の言葉を勉強していました。

神学   Theologie  Theo- logie           Professor - logie    

            Theology    神の 言葉        教授の    言葉

聖書ではなく、 聖書批判を学びました。それぞれの教授は、自分のテーゼを証明しようとするのです。

 

 

 

主人も、浜松の静岡大学工学部の聖研究会で、聖書批判を学んでいました.

 

彼は、 聖書批判の勉強によって、聖書をよりよく理解することができると考えていました。だから彼はドイツに来ました。しかし、人間の仮説を使って、聖書を、主なる神の言葉を理解することができません。このテーマに関する非常に有益な講演が、Roger Liebi 博士の youtube にある「聖書批判の批判」という講演です。

  Eta Linneman  教授の本も、とても勉強になります。彼女はマールブルクでブルトマンに師事し、非-神話-化を勉強して、博士号を取得しました。そして自ら、聖書批評を教えましたが、彼女は、いわゆる科学的な聖書批判が、哲学的な考えと人間の前提をふまえていることに気がつき、そのことを論証しました。彼女は、教授として教え、書いた本のすべてを撤回する勇気を持っていました。でも、私は当時そんなことを知りませんでしたし、彼女の本『本物か偽物、オリジナルかフェイク/謬説』は、まだ書かれていませんでした。私は当時、自分でこの問題を解決することができませんでした。

 

私を悩ませた第二の問題は、人生を誰と共に過ごしたいのかということでした。それは激的な小説のようなものですが、今日の話題ではありません。今日は問題解決だけが重要です。

 それで当時、勉強でも個人的私生活でも、私にはこの2つの問題の解決策が見えませんでした。しかし、私はそれを自分で解決するべきではなかったのです。私たち一人一人は、人生の中でこのような経験をしたことがあるでしょう。主なる神は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なる」(イザヤ55:8。私自身が思いつかなかった解決策は、次の通りです。私は, 幸いなことに肺病にかかって、救いの島、つまり、療養所に追放されてしまいました。

  ヘブライ語のコースの日本人は、帰国していました。しかし、私が1年後に退院したとき、私の家に大きなポインセチアの花束が届きました、

彼、この日本人は戻ってきました。「一緒に行きましょうか?」と私は尋ねられました。はい、私は、木と村が大好きで、翌年結婚しました。

 それで、内村は私の人生の中にすでに現れていたのですが、私はまだそれを知りませんでした。

 

何にしても、1つの問題が見事に解決されました。もう1つの問題、神学の勉強についての問題にも、予想外の素晴らしい解決策がありました。

 



  

1第三の導き。私は尋ねられた。

 

「内村鑑三の本『余は如何にして基督信徒となりし乎』の続編を書きたくないですか。」

 


聖書研究会、主人は左上にいる

 

 

 

 

  

ご要望があれば, 日本でのこれまでの私の歩みについて、講演の続きをお送りします。